イランでのアジア人差別

中学校の現代文の教科書だかに、『温かいスープ』という話が収録されている。ざっというと、戦後の日本がヨーロッパで肩身がせまい思いをしている時期に、貧しく人種差別に会いながら留学生として過ごした筆者が、心温まるフランス人に心遣いに国際性の一片を見出すという話である。

最後には

国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。それは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じらいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。

残念ながら、私はこれまでの苦しい思いをさせられてこう言った優しさの一片に触れたとしても、最後のように国際性を自覚するように美しく終わらせることはできない。

ある意味中東で生活、働く人にとってはこういったことが通過儀礼で、慣れるようにしなければいけないものなのかもしれないが、枕を濡らした夜と、ノートに書かれた記録を見返すたびにやはり思う。

差別は辛い。

私は男性なのでセクハラを含めた、嫌がらせというのはほとんど被害にあわない。ただ、それでも通りを歩くだけで、「中国人」(ここでいう中国人は、国を馬鹿にしてるわけではなくアジア人全体を指しているようである)笑われたり、酷い場合では石を投げられたりする。

もちろんこう言った行為が我々アジア人だけにされているわけではなく、ヨーロッパから来た学生にも嫌がらせはあるみたいだが、それでもヨーロッパからの留学生と一緒に通りを歩いていると、とてもびっくりされる。「こんなこと言われて嫌じゃないの?」

ある程度は慣れるかもしれないけれども、それでもゆっくり金属が錆びていくように、心は傷つけられてある節にそれが一気に現れてしまう。通りに出るのにも嫌になって、出不精になってしまうし。

また、嫌になる瞬間は通りで歩いてる時だけではない、例えば普通に人と話していて「セルフィーをとろう」なんて言われる時だって、やはり自分がまるで「天然記念物」かのように扱われていることに気づく。このようなことから自分が写真を撮られることは嫌いだと言っても、理解されない。

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